アトリエから見たパリ第7回 1960年代のパリ、LE GROUPE DES 5 とEleves de CAMPS.


コラム第7回目は1956年から10年以上続いたGroupe des 5 (グループ・デ・サンク)とEleves de CAMPS について書いてみようと思います。

日本にも紹介されたこのGOUPE des 5ですがもともとはパリの生地商が5つのテーラーとアソシエしたのが始まりと言われています。

まず、はじめに生地商の名前を挙げるとAUGUSTE DORMEUIL、BARCLAYS-WOOLLEN、DORMEUIL、 HUNT ET WINTERBOTHAM、 J.COOPER UHRING、 PAUL VANGELUWEそしてSECRETARIAT INTERNATIONAL DE LA LAINE。 対して選ばれたテーラー達はCharles AUSTEN、 Joseph CAMPS、Mario DE LUCA、 Andre BARDOT、 そしてMax EVZELINE。そのうち最初のCharles AUSTENはVAUCLAIRとたまに入れ替わったりしていたようです。 ここで名前が挙がった生地商たちも今ではほとんど残っていません、合併し名前が変わったところもあれば、倒産してしまったところもありますが、Dormeuilは現在も変わらず高品質の生地を織っています。同様にテーラーですが、この中で現在もテーラーとして営業しているのはPlace de la Madelaineに店を構えるCAMPS de Luca (Maison CAMPS とMaison DE LUCAが1969年にアソシエしました)と、Faubourg St-Honore 通りに店を構える Max EVZELINEの2つになりました。

Groupe des 5は上で挙げた生地商が当時最新の生地をそれぞれのテーラー達に供給し、彼らはそれらを使って最高の作品を作り、フランス各地でDefiler(ファッションショー)をしていたそうです。生地商にとっては、自分達の今一番旬で最も美しい生地を出来上がったスーツとして宣伝出来るという利点もあって、このDefilerは発展、継続され当時の男性雑誌 L’HOMME で幾度も特集されていました。

1967年当時の紳士服雑誌 L’HOMME より。

ただこの5つのテーラーだけがパリを代表するテーラーというわけではなく、当時このGroupe des 5に加入せずに活躍していたテーラーは沢山ありました。
その筆頭として挙げられるのが過去のコラムでも触れた Eleves de CAMPS 達と言えるでしょう。まさしくFrancesco SMALTO始めClaude Dominique ROUSSEAUとURBANの3つのグランドメゾンに他なりません。私はスマルトに入社する前、このGROUPE des 5の名前はすでに耳にしていた為、何故SMALTOはGROUPE des 5 に入っていなかったのか?と常々疑問に思っていました。というのも日本ではフランス=Groupe des 5というイメージが強いようで、日本で年配の方と話すたびにGroupe des 5 のことを聞いていたからです。
そこで最初Assistant d’Apieceurとして働き始めたスマルトで、40年間勤める老職人に聞いてみたことがあります。彼は「パリでは、当時スマルトというとフランス一の実力と全てのタイユールから思われていた。注文量も、仕立てのクオリティも、全てが段違いのレベルの高さだった。だから、それは今もだけれど、ムッシュウスマルトがデザインする春夏・秋冬のオートクチュールコレクションが発表されると、すぐに他テーラーは盗みに来たもんだよ。なんてったってスマルトのコピーをすれば、注文はいくらでも入ってくる時代だったんだから。だから年間2000着、裁断されて仕立て待ちなのが200〜300着は常にあったスマルトが、そのGroupe des 5に入る必要がなかったって訳だ。ランバンやクロードルソー、シフォネッリがそこに入っていなかったのも同じ理由だと思うな」と教えてくれました。そしてROUSSEAU、URBANは、スマルト同様非常にクオリティの高い服を作り、実際当時の L’HOMME を開くと彼らEleves de CAMPSの作品が誌面の多くを飾っています。

Groupe des 5とEleves de CAMPS。
こうして大きくわけると2つの流れが当時のパリにあったわけですが、同時に日本人クリエーターもパリで活躍していました。ご存知の方も多いと思いますが五十嵐九十九さんです。1961年に船で渡仏した五十嵐さんは、初め世界洋服協会会長だったMonsieur Vauclair に師事し、その後ピエール・カルダンに入られたそうです。私が五十嵐さんの名前を耳にしたのは、パリのAcademie Internationale de Coupe de Paris (パリのモデリスト養成学校)に通っていた頃、学校長のMonsieur Vauclair (先に書いた世界洋服協会会長 のご子息)からでした。渡仏されて間もない頃の苦労話など色々なことを話してくれ、『君の情熱はまるでツクモみたいだぞ』と褒めて頂いたのを覚えています。
ピエール・カルダン退社後、パリで7回のDefilerをされ、日本とパリで活躍された五十嵐さんの記事は当時の L’HOMME で、『Un Japonais de Paris. Le Style de Franco-Nippon』と大絶賛されていました。

当時の紳士服雑誌L'HOMMEより

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